著者が言っているかどうかが問題

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論説文や評論文の問題は、他人の言っていることを正確に理解できているかが鍵になる。

 

なので著者が書いていないことを答えたら、それは全て誤答になると考えれば良い。

 

たとえば「世界には飢餓で苦しむ人が大勢いるのだから、食べ物を粗末にしてはいけない」というような道徳的に正しい文章でも、著者の主張に合っていなければ×である。

 

物語文では道徳力が問われるが、論説文や評論文では、常識や道徳を否定するような答えでも正答になる

 

そして方向性は合っていても、微妙な違いで×になることもある。

 

現代文のカリスマ講師として有名な出口汪(でぐち・ひろし)さんの本には、正しい選択肢の選び方について、「イイスギ」はダメ、と書いてある。

 

イイスギ、というのは、「著者はそこまでは言っていない」という意味だ。

 

たとえば本文中に「彼はネコを飼ってみようかと思った」としか書いてないのに、

  • 彼は、ネコの魅力にとりつかれた。

     

  • 彼は、ネコが飼えないアパートには住めない
などという選択肢があったら、これはイイスギだから間違えだってことだ。

 

こういう選択肢は、本文には反していないが、そこまで言えるかどうかは不明だから×なのだ。

 

出題者側に立場に立ってみると、こういう言い過ぎタイプの誤答の選択肢は、著者の主張に近い選択肢なので、作りやすいし、正答のカムフラージュに役に立つ。

 

選択肢を絞って最後に残る二つのウチ、たいてい片方はイイスギ選択肢になってるはずだ。

 


易しい言葉に言い換えるか、難語に言い換えるか

論説文や評論文の四択問題では、道徳的には正しいけれど、筆者の意見とは異なるような、選択肢が盛り込まれる。

 

また著者の意見には近いが、著者が書いていないような、イイスギの選択肢も入れられている。

 

道徳的な選択肢の場合は、著者の意見とはハッキリ異なるので、論説文や評論文に慣れてくれば、このような選択肢は真っ先に除外できるようになる。

 

しかしイイスギの選択肢は最後まで残り、正答とイイスギの二択で迷うことになる。

 

この場合に正答をカムフラージュして隠す方法として、「言葉の置き換え」というものが行われる。

 

つまり表現は異なるが、意味がほぼ同じ表現をつかうわけだ。

 

この場合はもう2つのパターンしかなくて、

  • やさしい言葉に言いかえるか、
  • 難しい表現に言いかえるか
の二通りが考えられる。

 

四文字熟語やカタカナ語を、易しい言葉に置き換えるか、易しい言葉を、四文字熟語やカタカナ語に置き換える、と言うようなことを行うわけだ。

 

たとえば本文中に「2人以上で競い合い、より良い方を選ぶのが民主主義だ」という主張があったとしたら選択肢は(ア) 民主主義とは、みんなで相談してやり方を決めることだ(イ) デモクラシーの根本原理は、複数の候補から選択することだ(ウ) 民主主義は、呉越同舟でも正しい方の意見を通すことだ(エ) ライバルと張り合うことによって、必ず良い結果が出るなんてモノが作れる。

 

(ア)の選択肢は、民主主義の一般的な定義みたいなもので、著者の主張とは違っているので×。

 

(イ)の選択肢は、民主主義をデモクラシーというカタカナ語に置き換え、「2人以上」を「複数の」に置き換え、「選ぶ」を「選択」に置き換えている。

 

(ウ)の選択肢は、呉越同舟という、「2人以上」に似た言葉を持ってきているが、呉越同舟というのは「対立している人が同じ船に乗る」という意味だから、ちょっとイイスギっぽい選択肢。

 

(エ)に至っては、民主主義が入っていないのでダメだろう。

 



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