物語文で問われるのは、常識と道徳?
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中学受験の国語の問題には、実は相反する問題が含まれている。
そのため、偏差値が50を挟んで、大きく上がったり下がったりする場合は、このどちらかの問題で点が取れず、それで成績が大きく変動する。
その相反するタイプの問題が、物語文と、論説文・評論文だ。
まず物語文で問われるのは登場人物の心境であるが、中学受験の国語の物語文の場合は、殆どが小学生の話が出題される。
登場人物の心境を読むなら、何も小学生の話でなくても良さそうなもんだが、必ずと言って良いほど、小学生の物語が出る。
これは、これから中学生になる子供に対し、「他の人のことを思いやることができるかどうか」とか、「常識や道徳」を知っているか、試しているのだという。
そのため、子供が感情移入しやすいように、小学生が登場する物語を選んで、道徳的な判断ができるかどうかを試している。
自分の身の回りにも起こりそうな話を出題し、集団の中でどのように振る舞うべきだと思っているかを問う。
なので問題文中をいくら探しても、選びようがないような選択肢が出題されて、「常識で判断する」ということを期待する場合もあるという。
これって問題としては掟破りのような設問だが、受験生の常識や道徳力を問うているのであれば、ありうるだろう。
ところがこれは物語文の問題を解く場合であって、論説文や評論文の場合は逆にのことが求められる。
物語文では、常識や道徳が問われるのに対し、論説文や評論では、常識を疑うことを求められるのだ。
論説・評論は、常識を否定するもの
物語文は、常識があるかどうかを問う問題だ。
一方、論説や評論を題材にした問題は、常識を疑う力を受験生に問う問題である。
論説とは、著者が主張したいことを、いろんな例を挙げて述べる文章で、評論というのは、小説や映画、政治など、他人が作ったものや他人の行為を、褒めたりけなしたりする文章だ。
論説や評論文の目的は、常識を疑ったり、世間一般の評価に対して異を唱えることで、民主主義の根幹である「議論」につながるものだ。
民主主義とは、2つ以上の意見や候補を集めて、その中から一番良いモノを選ぶことによって発展する。
そのため、常に常識を疑ったり、一般の評価に異を唱えることも重要で、論説文や評論文というのは、その役割を果たす。
なので論説文や評論文では、当たり前のように常識や道徳を疑ったり否定したりもする。
世間の人が当たり前だと思っていることに、異を唱える場合もあるし、不道徳に見えるようなことにも言及する。
なので常識や道徳が身についていて、世の中を善悪で理解している子供には、論説文や評論文は、読むのが難しいかもしれない。
というのも、それまで良しとされてきたことが、ドーンとひっくり返されるような話もあるから、何が正しいのかさっぱり分からなくなるのだ。
そこでついつい自分の持っている常識や、道徳力で判断してしまって、答えを間違えてしまう。
問題文を書いている著者は、一般に信じられていることや、常識に対して、異なる意見を述べているのに、それが受け入れられず、それで得点できないわけだ。
こういうタイプの文章には、他にも随筆(ずいひつ/エッセイ)というのもあるが、随筆は主張ではなく感想に近い。
日々の様々な出来事について、自分なりの感想を述べているだけで、メッセージ性が弱い文章になる。
随筆は、人によって価値観が違うという前提で、「自分はこう思う」というコトを書いているだけだから、論説文や評論文よりは、読みやすいはずだ。