国語のテストは「他人を分析する」テスト
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国語の成績が悪い子供の場合、何を答えるのかよく分かっていない。
もちろん「登場人物の心情」や、「筆者の言いたいこと」を答えるのだ、…というのは分かっているのだろうが、一番肝心なのは、それではない。
というのも国語で問われているのは、「他人の心境・気持ち」であったり、「他人の意見・主張」なのだ。
物語文では、登場人物が、何を考え、どういう気持ちになったのかを突き止める。
論説文では、その文章を書いた著者が、何を根拠に何を考え、どう主張しているのかを突き止める。
これが国語の入試問題で問われていることで、つまり国語のテストは「他人を分析する」テストなのだ。
ところが人間というのは、自分のことしか考えていないことが多いから、他人のことを考えるのが非常に難しい。
性格が違う人や、意見が異なる人のことなんか、全く理解できない、と言う人もいるはずだ。
そういうタイプの人にとって、他人の気持ちや主張を推し量るのはとんでもなく難しいことのはず。
なのでついつい自分の経験や意見を、登場人物や著者に当てはめて答えてしまう。
たとえば物語文では、登場人物に感情移入してしまって、自分の体験をベースに判断してしまう。
そのため、自分に似た性格の登場人物や、似た境遇の登場人物の気持ちなら分かるが、そうではない登場人物の心境になると、全く分からなくなる。
一方、説明文・論説文の場合も、自分の意見や持っている常識・先入観にとらわれて、著者の言いたいことが理解できなくなる。
特に論説文では、「常識を疑う」というパターンの文章が出題されることが多いので、自分なりの意見を持っていると、かえって筆者の主張が読みとれないと言うことがおこるのだ。
「自分だったら、こう思う」というのはダメ
国語のテストで問われているのは、あくまで「他人の心境や気持ち」や「他人の主張や意見」だ。
ところが他人の気持ちを想像しようにも、自分が同じ境遇に置かれて、同じような心境になった経験が無ければ、他人の気持ちを推し量ることはできない。
また、その気持ちをどう表現するのかを知らなければ、ちゃんとした答えを書くことも難しいだろう。
何十年も生きていれば、世の中にはいろんなタイプの人がいて、いろんな価値観を持つ人がいるとわかるが、、社会経験などほとんど無い小学生に、それを望むのは酷なことかもしれない。
なので「自分だったらどういう気持ちなんだろう?」と言う風に考えて答えを書いてしまうわけだが、それではダメだ。
それはあくまでも自分の気持ちであるり、問題に登場する人物が同じ気持ちかどうかはわからない。
「自分だったらこうだけど、この人はどうなのかな?」と言う風に考えて、その手がかりを文中から探さないといけない。
これは論説文でも同じで、「自分は自分、著者は著者」と言う風に、自分と他人をハッキリ区別しないといけない。
現代文の人気講師の出口汪(でぐちひろし)さんの本には、「東大を受験しようかと言う生徒に限って、現代文が正確に読めない」という様なことが書いてあった。
というのも東大を受験しようというような優秀な生徒の場合、すでにいろんな事に対して自分なりの意見や常識を持っていて、ついつい自分の物差しで物事を考えてしまう。
そのため、ついつい自分の意見や、自分の望む答えを選んでしまうというのだ。
それでは残念ながら、文章の読解にはならない。
答えるのはあくまで「著者の言いたいこと」や、「著者の考え」なのだ。